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万葉歌 巻9-1751

ページID:0001664 更新日:2019年2月4日更新 印刷ページ表示

『風の郷・龍田古道PJ』写真提供

島山を い往き廻(もとほ)る 河副(かはぞひ)の 丘邊(をかべ)の道ゆ 昨日こそ

吾が越え來(こ)しか 一夜のみ 宿(ね)たりしからに 峰(を)の上の 櫻の花は

瀧(たぎ)の瀬(せ)ゆ 落ちて流る 君が見む その日までには 山下(あらし)

な吹きそと 打越えて 名に負へる(もり)に 風祭(かざまつり)せな

さくら嶋山乎 射往廻流 河副乃 丘邊道從 昨日己會
吾超來壯鹿 一夜耳 宿有之柄二 峯上之 櫻花者
瀧之瀬從 落堕而流 君之將見 其日左右庭 山下之
風莫吹登 打越而 名二負有社尒 風祭為奈

作者 高橋虫麻呂※注1
時と場所

天平6年(734年)頃。

龍田越えの峠か亀の瀬付近。

語釈
  • 〔經宿〕一夜を宿る意味の語。何らかの都合で慌しく還ることとなった。
  • 〔島山〕蛇行する河に山が突出して島のように見える所。大和の京の宮人は、海を懐かしむ心から、聊(いささ)かの水にでも海と重ね合わせている。ここでも竜田川を隔てて見る山を島山と呼んでいる。
  • 〔風祭〕花を散らさぬようにする祭り。
解釈 島山を行き廻っている河の、その河沿いの丘の辺りの道を通って、つい昨日吾は難波へと越えて行ったのであったが、ただ一夜泊まっただけであったのに、峰の上の桜の花は激流の瀬から、散り落ちて流れて行く。天皇が御覧になられるその日までは、花を散らす風は吹かないでおくれ。この山を越えて風神として名高い龍田大社に、風祭りしよう。
歌の心と背景 天皇に何としてでも、この愛(め)でたい桜の花をご覧に入れたい。それ迄は、この花を散らす風の吹かないように、龍田大社の風の神に風祭をしよう。と云う熱意に満ちた歌である。往時は龍田の神に対する信仰は深いもので、今日では想像しがたい強いものがあったと思われる。年々催行された風祭は、天皇が庶民の為に行われる祭りであったが、今しようとするのは庶民に近い虫麻呂が、天皇に山桜の美観をご覧に入れたい、との心よりのもので、虫麻呂の心情がよく現れている。

※この歌の碑が平成19年4月に、奈良女子大学地域貢献事業の一環として同大学院教授
坂本信幸先生の揮毫により寄贈され、歌にふさわしい龍田大社の境内に設置されました。

龍田大社境内 高橋虫麻呂の歌碑の画像1龍田大社境内 高橋虫麻呂の歌碑の画像2
龍田大社境内 高橋虫麻呂の歌碑

龍田大社 正面大鳥居の画像
龍田大社 正面大鳥居

元官弊大社の龍田大社は、紀元前91年頃、今から2,100年前、第十代の崇神天皇が創建されました。主祭神は「天御柱命」「国御柱命」です。天と地の間の大気、生気、風力を司り、風水害、凶作、疫病の流行を鎮め、五穀豊穣をもたらしてくれる、風神の名で親しまれた神様です。聖徳太子が法隆寺を建立する際、しばしば馬に乗って大社に参拝し、竣工の無事を祈願されたとも言われております。なお、斑鳩町の「龍田神社」は「龍田大社」の御分霊を御祀りされた分社でしたが、大正10年頃に地元の希望を受け、大社よりその筋に請願し、県社に昇格し独立神社となりました。

※注1【高橋虫麻呂】
奈良時代の養老、神亀(じんき)、天平にかけての万葉歌人。歌は万葉集以外には無い。奈良朝初期に宮廷に仕え元正天皇の養老年間717~724年頃は、藤原宇合(ふじはらのうまかひ)の配下として常陸地方にいたらしく『常陸国風土記』の編纂にたずさわったらしい。彼の歌は旅先で歌ったもので、叙事長歌にひいで、伝説的人物を歌った作は特に名高く、万葉集中特異な位置を占め代表的歌人の一人である。私歌集に『高橋虫麻呂の歌集』があるが、すべて彼の作と認められている。


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