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龍田道は奈良時代において平城京と河内、難波を結ぶ官道として置かれ、天皇の行幸や遣唐使、遣新羅使が大和に入る玄関口として利用されていた古道ですが、官道の始まりについては、『日本書紀』の中に推古21年(613年)11月に「難波より京に至る大道を置く」とあり、諸説あるものの、これが龍田道のことと云われています。道の整備には聖徳太子が関わっていたとも云われており、龍田道から太子道を経て飛鳥の京へと向かうルートが想定され、沿道に古代寺院が建ち並んでいることからも蓋然性が高いといえます。
奈良時代には、龍田道の河内側(現在の柏原市)では仏教に帰依する人々(智識)により智識寺をはじめとする河内六寺や河内国分寺、河内大橋が置かれ、大陸からの使者を迎えるに相応しい大道として利用されていました。亀の瀬を越えるルートについては大和川沿いの道のほか、三室山・雁多尾畑(柏原市)を抜ける山越え道など、幾つかのルートが考えられています。奈良時代に編纂された『万葉集』でも多くの歌人がこの龍田道を通った際に多くの歌を残しており、当時の人々の心情的にも重要な地であったことが窺えます。また、軍事的にも要衝であったことは、高安城(たかやすのき) の築城や天武元年(672年)の壬申の乱にて戦場となったこと、天武8年(679年)11月に龍田山に関を設けたことなどからも読み取れます。