ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > かわまちづくり・川の駅整備プロジェクト > なぜ「川の駅」なのか?

本文

なぜ「川の駅」なのか?

ページID:0004584 更新日:2022年3月14日更新 印刷ページ表示

三郷町では日本遺産やアドベンチャーツーリズムの観光拠点として川の駅を整備しようと考えています。

そもそもどうして「川の駅」なのか?お話させていただきます。

どうして「川の駅」なの?

川の駅を整備しようとしている場所(立野南3丁目にある立野汚水ポンプ処理場内)が江戸時代に舟航していた魚梁舟(やなぶね)の拠点であったことと、かつて「亀の瀬東口駅」があった場所であることが関係しています。

─ 魚梁舟(やなぶね)の拠点であった

魚梁船の画像

明治時代に鉄道が開通する以前には大和川を舟が舟航していました。

江戸時代には舟運が盛んに行われ、大阪方面から亀の瀬までは「剣先舟(けんさきぶね)」が、大和の立野村から上流の大和川は「魚梁舟(やなぶね」が舟航していました。

亀の瀬は岩が多く、また滝もあったために、舟で遡ることができず、大阪方面から運ばれてきた荷物は亀の瀬で一旦下ろされ、峠を越え、大和の立野村まで運び、魚梁舟に乗せてさらに上流域へと運ばれていました。

陸路で峠を越えてきた荷物を魚梁舟にのせ、出発の拠点であった大和の立野村が川の駅の予定地付近であったとされています。

魚梁舟はこの地を出発し、現在の天理市、田原本町、大和郡山市などへと荷物を運んでいたそうで、この地域が奈良にとって重要地点であり、かつ人々の生活が大和川とどれほど結びついていたかが分かります。

魚梁舟の出発点となっていたため、まさに大和川にある「舟の駅」であったと考えられます。

─ 「亀の瀬東口駅」があった

昭和の時代になり、国鉄関西本線が大阪と奈良を結ぶようになりました。

しかし、昭和6年から7年にかけて亀の瀬で発生した大規模な地すべりにより、大阪と奈良をつないできた国鉄の亀の瀬隧道が完全に崩壊し、崩れた隧道の両側に亀の瀬東口駅と亀の瀬西口駅という仮駅が置かれました。

この亀の瀬東口駅がおかれていた場所が川の駅の予定地とされています。

亀の瀬トンネル崩落

亀の瀬隧道が崩壊した後、この2つの仮駅の間は徒歩による連絡を行い、暫定的な輸送を行いました。

再度大阪と奈良をつなげるために大和川の対岸に2つの橋梁(第三大和川橋梁、第四大和川橋梁)を渡し、昭和7年7月からは明神トンネルを開通させる工事が始まりました。工事はその年の大晦日に完成し、現在もJR関西本線の三郷駅~河内堅上駅として使用されています。

工事期間の短さと、当時作られた鉄道区間が今も使用され続けていることが注目されています。

─ たくさんの人が立ち寄る「駅」へ

古くから大阪と奈良をつなぎつづけたこの場所を、たくさんの人が立ち寄る「駅」として復活させ、令和6年度のオープンを予定しています。


川の駅整備プロジェクト
大和川と三郷町