本文
人もねの うらぶれ居るに 龍田山
御馬(みま)近づかば 忘らしなむか
人等母祢能宇良夫禮遠留尒多都多夜麻美麻知可豆加婆和周良志奈牟迦
作者 | 山上憶良(やまのうえのおくら)※注1 | |
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時と場所 | 天平2年(730年)12月6日太宰府大伴旅人の邸での「餞酒」の席。 | |
語釈 |
(人もね)人皆の地方語で太宰府の官人全部を指す。 |
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解釈 | 人皆がうちしおれているのに、龍田山に御馬が近づいたら、後に残った皆のことなどお忘れになることでしょうか。 | |
歌の心と背景 | 天平2年(730年)12月6日(太陽暦の731年1月22日)、太宰府の書殿での「餞酒」の席で詠まれた歌。「餞酒」は旅立つ人の無事を祈る為にする宴である。旅人が大納言に昇進し、京へ還る道中を想像しての歌だが、旅人の楽しい気持ちと残された人達のさみしさがしみじみと伝わってくる。龍田山は、大和国と河内国の境の山であり、大和を象徴する山であった。その龍田山を越える道が龍田古道で、平城京遷都後は「北の横大路」の役割を果たした。万葉集中に龍田山は13首に詠まれている。 |
【山上憶良】(やまのうえのおくら)
百済からの渡来人説と、もともと日本人との2つの説がある。大宝2年(702年)遣隋使として唐を渡り、神亀3年(726年)67才で筑前国守(ちくぜんのくにのかみ)となる。筑前在中に、大伴旅人を太宰の師として迎え筑紫歌壇を形成した。作品は思想的、倫理的色彩が強く「思子等歌」「貧窮問答歌」など、人生や社会を詠んだ独自の歌境を開いている。天平5年(733年)74才で没。万葉集に長歌11首、短歌66首、施頭歌(せどうか)1首の合わせて78首を残した。