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河内大橋跡(かわちおおはしあと)
万葉集巻9-1742、1743番歌、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の歌で詠まれた大和川に架かっていたとされる丹塗りの大橋。龍田古道は、奈良側では大和川右岸に沿って設置されており、難波に向かう際には大和川左岸に渡る必要があった。当地が推定される理由として、石川との合流前に大和川左岸に渡河した場合、大和川だけでなく石川も渡る必要が生じること。また、近世に当地で大和川の流路変更が行われたように、大和川の川幅が狭く地盤も安定していたことが挙げられる。当地域は河内六寺に代表されるように、仏教に帰依した「知識(ちしき)」と呼ばれる人々が集まる地であった。寺院の建立だけでなく、龍田古道や河内大橋の整備、大和川の治水においても「知識」が重要な役割を果たしていたのであろう。
大和川治水記念公園(河内大橋跡)にある万葉歌碑
大和川の旧河川にあたる長瀬川